《「待つ」ということ》
今、みなさんは何を待っていますか。卒業、進級、就職や進学、いろいろあるかと思います。でも、中には自分は何を待っているんだろう、と考える人もいませんか。あなたは今何を待っていますか、と聞かれて、私は~を待っています、と答えられる人は幸せなのかもしれません。
鷲田清一氏は、現代を「待たなくてよい社会」「待つことのできない社会」になったといいます。そしてその特徴を「未来を視野に入れていない。いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする」こととしています。さらに、「迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは最後まで視野に入らない。」と断じています。そういえば、私もいつしか、「待つ」ということを忘れてしまっていました。
鷲田氏はあらかじめ決められた結果を求められる、しかも即座に求められることにより、未来に開かれている意外性が排除されることの弊害について語っているようです。歴史的な大きな発見は意外性から生まれることが多いのです。昨年、ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏も製薬会社の就職試験の面接で「あなたは会社に向きません」と言われたために研究活動に入ったといいます。「あらかじめ決められた結果」である「製薬会社へ就職」していたならノーベル化学賞を受賞できなかったかも知れない、とも言えるのです。
しかし、ことはこれほど単純ではありません。見逃してならないのは、「待つ」ことの背景です。待つためには、その背景として「仕込み」という「地道な努力」があるはずです。意外性の効果は、積み重ねた「努力」が「予期しない結果」につながったということであり、「予測される結果」を期待して「地道な努力」(自己犠牲)を継続した事実が背景としてあるのです。
「待たなくてよい社会」「待つことのできない社会」になってしまったということは、その背景にあった、「仕込み」や「地道な努力」はどうなってしまったのでしょうか。そのことが一番心配です。
即座に「期待される結果」が求められます。ちょっと待って、といえば相手は別な人へ行きます。説明されないまま結果だけを求められることもあります。私たち自身も相手を待ちません。殺伐とした社会。批判するのは簡単です。しかし、加速度的に進行している「待たなくてよい社会」「待つことのできない社会」からは誰も逃げられません。
「〈待つ〉ことから未来は生まれ、意識は始動した。」と氏は言っています。私は今一度、「待つ」ということを考えてみたいと思います。その背景にある、「仕込み」や「地道な努力」について、もう一度思い出そうとしています。「待てる自分」を取り戻したいのです。
都立日野高校
校長通信
平成21年3月 9日
第5号
